みちのく潮風トレイル 第3話 『分断を越えるもの』
海岸沿いの遊歩道から砂浜へ降りようとすると、目の前を細い小川がさえぎっていました。小川の手前に立ったまま、向こうの浜で高齢な男女が海藻を獲っているのを、ぼんやり眺めました。
そこに彼らより一世代若いサーファー達がやってきて、楽しげに、荒れる波の沖へと泳いでいきました。
これは単なる偶然の光景にすぎませんが、なんとなく時代の変化、といったものを感じてしまいました。上の世代にとって海は今も生活の糧を得る場であり、下の世代にとってはむしろ遊びに行く場であること。海が日常の場から非日常の場へと変わっていったのは、いつ頃のことだったのでしょう。
そして彼らと、彼らを眺めている私の間は、小川に遮られているのでした。
遊歩道に戻り、ルートに沿って車道を進むと、あの小川が青森県と岩手県の県境であったことを知りました。結局、私も彼らの側、岩手県洋野町へと、歩いて入って来たのでした。
みちのく潮風トレイルは、車道をたくさん歩くと聞いていました。特に見どころもない長い道路歩きは、そんなに楽しいものではありません。もしこれが私にとって初めてのロングトレイルだったとしたら、つまらないトレイルだ、と感じたかも知れません。
ニュージーランドのトレイルを歩いた時も、日本と同じように国土が小さいために、人の生活圏によって分断された山塊を、車道でつなぎながら歩くように設計されていました。それゆえに、町から山に入り、別の町へ降りていく感覚が新鮮で、人の生活圏と自然との境界のなさ、全てはつながっているという感覚が、強く実感できたように思います。同じように、みちのくの地を浜から山へ、また浜に降りてきて、県境を越えてさらに歩き続けることの快感が、ここにはありました。
翌日は、朝から雨が降っていました。びっしょり濡れたテントをパッキングして、重量を増した荷物を担いで、黙々と濡れながら歩きます。
国道に出ると、復興事業のトラックが次々とやってきて、無遠慮に泥水を浴びせかけては去っていきます。少しくらい減速してよ!と心の中で叫びながら、私の頭の中は「いつから車はこんなに偉くなったのだろう、道路とは一体誰のものなのだ?」と、ぐるぐる考えだしました。
みちのく潮風トレイルは、環境省が整備した「長距離自然歩道」の一つです。1970年台に整備が始まった東海自然歩道は、ちょうど東海道新幹線や東名高速道路が開通した時代で、加速してゆく近代化に対して、人間本来の速度で歩いて旅しながら自然の美しさを感じる喜びを見直し、人間性を取り戻そう。という考え方に基づいた事業だったとのことです。(大井道夫著「風景への晩歌」より要約)
今聞いても全く新鮮さを失っていない考え方、つまり人間は全然進化していないのですね。
山道も車道も、あえて歩いて移動する。とは生産性に反する行為のようで、ちょっぴり反逆的に思えて、ほくそ笑みたくなります。機械によって奪われた道を、人間の足で取り戻せ。我らはニンゲンだ!
歩いていると、一歩の小ささ、地を這う歩行の遅さに愕然とする一方で、ふと振り返ると思っていた以上の距離を進んできたことに気がついて、人間の底力に驚かされもします。
市町村や県の境を超え、自然と人間の境界も超えて歩いてゆくことで、人がいかに自然の一部であり、自然から見れば都市と自然などという境界は存在しないことを実感します。そのような体験が、私の生き様にどう影響するのか、すぐにはわかりません。しかし少しだけ心が自由になれたような、晴れやかな気分になるのは確かです。
途中、有家浜(うげはま)という長い砂浜を歩く区間を楽しみにしていましたが、波が高くて歩けそうになく、楽しそうなサーファーの姿を後ろに、迂回ルートへ向かいました。
国道沿いの小さな商店に立ち寄ると、昔懐かしい駄菓子が半額になっていて、思わず手のひら一杯抱えてしまいました。レジの女性は、歩いて来たの?と驚きながら、バナナを1つサービスしてくれました。ささやかなサプライズが、冷えた身体と心を温めてくれました。
歩いて来た者に対して、人は思わず親切になってしまうものなのでしょうか。だとしたらそれは、歩いているハイカーだけではなく、ハイカーを迎えた地元の人にとっても、「歩く」という行為がもたらす、何らかの刺激を受けとって頂けたということでしょうか。
これまで車両が通り過ぎるばかりだった国道沿いの住宅地に、わざわざ遠くから人が歩いてやって来るなんて、トレイルが通らなければ起こらなかった現象でしょう。境界を越え、分断をつないで歩くことは、無限の力を持っているような気がしています。
歩くための道が、単に歩くこと以上の何かを、歩行者にも、歩行者を受け入れる側にも、もたらしてくれている。車道さえもトレイルに設定した考案者、バンザイ!と思います。
午後遅く、ようやく雨が止みました。洋野町と久慈市を隔てる高家川の手前で、長かった車道歩きは終わり、久慈市からは、かつての陸中海岸自然歩道に入ります。
雨で水かさの増した高家川を渡渉していると、サケが遡上していることに気が付きました。私とサケとが同時に川の中に存在し移動していることが嬉しくて、興奮しました。
この高家川渡渉ポイントは、初心者にはハードルが高いと思われて、迂回されがちな地点です。しかし水の中を靴のままで歩くことは、災害に対する心構えとしても貴重な経験になると思うので、是非とも歩いて渡りたい所でした。
川は分断するものではなく、それ自体が道でもありますから。
広島県生まれ。写真家、長距離ハイカー。2008年より写真家として活動を始める。2017年にニュージーランドの長距離ハイキングコース「Te Araroa Trail」を175日間かけて歩いたことがきっかけで、歩きながら写真を撮るシリーズを続けている。■主な写真展:2021年に個展「徒歩景色」みちのく潮風トレイル名取トレイルセンター開催。2019年に個展「emu」他多数開催。■出版:2018年に写真集「emu」出版。2010年にフォトブック「熱帯温室」他。