ヒマラヤ徒然草第七回:ベースキャンプへ

ヒマラヤ徒然草

KY-2峰ベースキャンプへ出発

ハンカル村を出た次の日、私達は標高4900mの幕営地を目指した。ベースキャンプまでは1、2回の幕営を経て行かなければならない。目標が見えたとはいえ、私はまだそれだけ離れた距離に居たのだった。

それまでの日程は1日あたりせいぜい300m上がる程度の標高差を続けていたが、ここに来ていきなり900mも上がることとなった。900mといえば大したことない様に聞こえるが、4000mから25kgのザックを背負って4900mまで上がるのはしんどいものだ。絶望的な辛さではないものの、景色を見て楽しむ余裕はあまり無い。

こうして私がヒイヒイ言っているのも関わらず無言でセコセコと荷物を担いで登っていくカッツァルヤク達はなんと逞しいことだろう。もはや彼らの方が登攀小隊向きだろう。(※カッツァル:登山遠征の運搬係として使われるロバと馬のハーフ)

さて、広義としてのヒマラヤの中にも登山者が集まる場所とそうでない場所がある。特に人気なのはエベレスト周辺やそれに連なる8000m級があるネパールヒマラヤ。エベレスト街道にアンナプルナ内院・外院、ランタン渓谷にダウラギリサーキット、ゴサインクンドなど・・・。それに続きバルトロ氷河を中心とするK2やブロード・ピーク周辺、ウルタルやスパンティークがあるフンザ等、いわゆるカラコルムも人気だ。少し離れた場所で言えばレーニン峰やイスモイルソモニ、ムスタグ・アタがあるパミール高原やカイラス巡礼なども人気スポットだろう。

しかし、インドヒマラヤはそれらに比べて圧倒的に人気が低いように感じる。NUN峰やナンダデヴィのようなランドマーク的7000m峰がある以外には全体的に6000m峰がまんべんなく散りばめられているような印象だ。仮にヒマラヤ黄金の時代にこの場所に立ち入ることが容易だったとしても、今のこのマイナーな印象は変わらなかっただろう。実際日本の遠征も聞いたことが殆ど無く、群馬県教職員隊によるチャウチャウカンニルダ遠征やストック遠征、日本山岳会青年部によるザンスカール未踏峰遠征くらいしか私は把握していない。メルー中央峰シャークスフィンはさておき、インドに広く散りばめられた6000峰達にはアルパインクライマーがそそるような要素が少ないのかもしれない。その点垂壁をどう攻めるかを楽しむという概念が全く無く、ただ人が知らない山に行きたいだけという私にとってはこの山塊は魅力の塊だったのだ。

なにせ情報量が圧倒的に少なく、自分の目で見るしか無い部分が多いのだ。最高に面白いじゃないか。ネットに情報が溢れる現代ならではの楽しみ方である。このあたり一帯を旅し、書籍に残したアンドリュー・ハーヴェイの「A Journey in Ladakh(1987)」でもこの場所は登場しなかった。(その私がこうして書いているものだからなんとも皮肉なものだが・・・)

幕営地点に着くと、すぐそこにまで氷河が迫っていた。なだらかな丘の向こうには雪を被ったKY-2が雲の隙間からこちらに顔を覗かせていた。当時この山塊について調べに調べていた私はその姿を見て興奮が止まらなかった。この奥にある未踏の氷河や未踏峰を想像するとたまらない。人類が足を踏み入れたことがないエリアがすぐ近くにあるというのは物凄い感触だ。まさに、日本の山では味わえない感覚である。

未踏峰遠征の計画をしていた私は、少しでも多くこの地の情報を記録しようと動画を回したりシャッターを切ったりと忙しく動き回っていた。狙っている未踏峰はこのKY-2の更に10km程奥の氷河に存在する。ベースキャンプまでのアプローチ方法は食料配分の計画にも影響するため、現地での情報が少しでも多くあれば有利だと私は思うのだ。特に現地の遊牧民が使うルートは便利だと踏んでいたのだが、そんなものは現地でしか分からないのだ。

幕営の準備が終わると高度順応に出た。流石にこの標高差を移動すると動悸が止まらない。しかし、私はこの高度障害の症状を楽しんでいた。より目的の場所が近づく実感が強くなるのだ。それに、標高移動後の頭痛と動悸であればすぐに収まる症状であり、食欲不振や吐き気の症状が出ない=順応が上手く進んでいると捉えることが出来る。

そしてその夜、息を呑むような星空が広がる中、私は岩に寝転んだ。

ゴダイゴの「銀河鉄道999」を聞きながら天の川の中心を眺める。アンドロメダを目指して奮闘する星野鉄郎の姿を、ヒマラヤに陶酔してひたすら頂きを目指すという半ば子供の遊びの延長のような自分に投影してしまうが、彼の旅はそんな私に重ねていいほどチンケではない。そう思いながら、999号のルートを追いかけるように星を観察すると楽しいことこの上ない。突き刺すような寒さの中でも、まだ少年の自分が心の中に居ることに安堵した。成長と共に薄れていくと言われる少年の心を維持することは、この世を楽しむコツの一つだと思っている。

翌朝、私はベースキャンプに向けて発った。

正月の朝を連想させるような心地の良い冷たい風が、氷の世界から降って向かってくる。白色を帯びた眩しい日差しもまた冬のような空気を纏っている。夏なのに冬だ。一歩一歩進むごとにそれまで頭しか見えていなかった山群の全貌が徐々に見えてきて、演劇の舞台の幕開けを見ているような気持ちにもなる。純粋に楽しい。何を背負うでもなく、なにかの目的でもなく、何かの役に立つでもなく、ただただ山に登るという行為が楽しい。心からそう感じる瞬間だ。幸せだ。

元は高い山に登りたいという強い気持ちから始まったこの計画。しかし、周囲の団体との闘争心、アルピニズムがどう、ワンダーフォーゲルがどう、登山家とは、冒険家とは、探検家とは、そんなくだらないとも言える枠の話ばかりに気を取られて性根がひん曲がった時期もあった。

初心忘れるべからず。誇りや称賛など面倒くさい。「楽しくて、登りたい、だから登る」というシンプルなもの、登山を始める人が最初に感じるその感情こそが一番大切だったのだ。だからこそ、人が知らない山が好きなのだ。人の姿心の引力に自分の性根が曲げられることなく、ただただ巡礼のように真っ直ぐに直してくれる気がするのだ。

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