かかっているはずのハシゴがない
2021年5月27日。登頂アタック当日。深夜0時にベースキャンプを出発。日中、ガヤガヤしていて眠れなかったので数時間の仮眠のみ。深夜に登り始めるのは眠いというのが難点。「クンブアイスホール」と呼ばれるベースキャンプからキャンプ1までのエリアは無数のクレバス(氷の裂け目)と雪崩の巣であり、ネパール側エベレストで最も危険とされるエリア。2014年4月18日、このエリアで雪崩が発生し、16人のシェルパたちの命を奪う事故が起こっている。
大きなクレバスを渡る場合、ハシゴがかけれられている。「アイスフォールドクター」と呼ばれるシェルパたちがハシゴを固定したり、補強をしたり、定期的にメンテナンスを行ってくれる。しかし、すでにシーズンが終わりに差し掛かり、アイスフォールドクターがすでに撤退していた。
あるべき場所にハシゴがない。ハシゴがないところは自力で降りて登るしかない。合計で4か所のクレバスアイスクライミングをすることになってしまった。しかも超急斜面。巨大なクレバスの中では、誰も足を踏み入れていない雪の上を一歩進むだけでも恐怖。崩れるかもしれないからだ。それを私のシェルパが恐る恐るやっていくのだ。体力と気力が一気に奪われていった。ここで何度もアイスクライミングをすることになるとは思っていなかった。これまで登頂したアンナプルナⅠ峰やカンチャンジュンガ、K2のアイスクライミングよりも難易度の高いアイスクライミングだった。
改めて、アイスフォールドクターの存在の大きさを痛感した。それまではエベレストが技術的に難しい山だと感じてはいなかったが、それはハシゴのおかげであって、実はエベレストはとても難しい山だったのだと感じた瞬間だった。
《クンブアイスフォール》
登るか下りるかの決断
以前登ったときは6時間ほどでキャンプ1に着いていたのに、登り始めて11時間。まだたどり着かない。時間がかかりすぎている。息苦しい。途中、上がってきた友人のシェルパに「酸素吸いたいな」と話した。後に聞いた話では、その友人は、先にキャンプ2に到着した際、別のシェルパに「直子の酸素ボンベをキャンプ1に持っていってあげて」と頼んでくれていたようだ。そして一人のシェルパがキャンプ1まで1本の酸素ボンベを持って私が来るのを待っていてくれていたようだ。
再びハシゴなしクレバスにぶち当たった。そのクレバスは、アイスクライミングできる場所ではなかった。背の高い男性であれば、ジャンプで渡れるが、私のような小柄な者がジャンプするにはリスクが高すぎる。周囲にいるのは私とシェルパの2人だけ。もし落ちたら、どうにもならない。
すると、下から、別隊のシェルパ4人が上がってきた。それも、9年来の親しい友人が中にいた。彼が、「僕たちがサポートするからジャンプしよう」と言ってくれた。しかし、「この先にもっと大きなクレバスがあり、そこをジャンプしなければキャンプ1には行けない」「ジャンプできたとしても帰りはもっとハードだ」と教えられた。
ここからキャンプ1まで3時間ほどかかる。キャンプ1にたどり着くことはできても、帰れないなら、ヘリコプターを呼ぶしかない。お金もない。病気でもないのにヘリコプターなど呼びたくない。明るいうちに下山するなら今だと思った。11時28分。私は下る決断をした。
《下山決断時》
下山はまたクレバスのアイスクライミングの繰り返し。またか、またか、と終わらない。力を振り絞って下りた。
素晴らしいシェルパに出会った
下山途中、一人の見知らぬシェルパに出会った。彼は、同じ隊の別の登山者のシェルパだったが、「同じ隊の仲間だから」と、頼んでもいないのに最後まで一緒に降りてくれた。
私がジャンプや氷壁で怖がっていると2人で励ましてくれた。途中何度も嘔吐して、何度も足が止まった。その度に、シェルパたちが「あそこまで行って休憩しよう」「もうベースキャンプまで近いよ」などと、私を奮起させるような励ましの言葉をくれた。私のシェルパはまだ経験の浅い若いシェルパだったため、不愛想にしていたが、途中から合流したシェルパは常に冷静で、常に前向きな言葉をくれる。素晴らしいシェルパに出会ったと思った。自分も困った人がいたときはこうしようと思った。
ベースキャンプへ戻ったときには辺りは真っ暗。ほぼ1日中、クンブアイスフォールの中にいたことになる。ベースキャンプの明かりが見えたときには、全身の力が抜けた。シェフがベースキャンプから1時間登ったところまで、迎えに来てくれていた。出発する前、「今年は登れないと思う」と話していたことを気にかけ、心配して迎えにきてくれたのだ。
ベースキャンプまでの残り1時間、私の手を引いて、連れて帰ってくれた。テントの中で冷え切った身体で震える私に3つの湯たんぽを入れてくれた。たくさんの支えがあって私は生かされていると感じた。
ヒマラヤは人の温かさに触れあえる場所でもある。そこがまた、私がヒマラヤ登山を続ける理由の一つだ。
2022年再び、ローツェに戻ってきた。挑戦はまだまだ続く。
連載を楽しみにしてくださっている皆様へ。
現在、私はローツェ挑戦中です。今年8000m峰14座登頂するため、今回をもって連載を終了させて頂き、目標達成に向かって突き進みたいと思います。ご覧頂き、ありがとうございました。渡邊直子
1981年福岡県大野城市生まれ。3歳より登山やサバイバルキャンプを始め、アジアの子ども達と海外登山や冒険キャンプをするようになる。小4で初の雪山登山に魅了され、中1で初めてパキスタンの4700m登山を経験。日本人女性初8000m峰8座登頂、日本人女性初世界トップ3座登頂他多数。現在は、アジア人女性初8000m峰全14座登頂を目指す。これはあくまで通過点であり、その先にあるもっと大きな夢に向けて様々な活動に取り組んでいる。
■ 2022年 1/15〜3/31 初の個展となる、【 渡邊直子展〜8000峰18回登山の軌跡〜 】開催中。