【視線の先#004】 道を辿り淡々と歩く

アウトドア

はじめて信越トレイルをスルーハイクしてみて

徒歩―比較的運動強度が低く、人間を含め地上に暮らす多くの生き物にとっては基本的な移動手段である。都会でも田舎でも、老若男女問わずみんな歩いている。大多数の人にとってそれは恐らく普通のことで、通勤や買い物、公共交通機関の乗り換えなど、日常生活から「歩く」という行為を切り離すことはできない。しかしそれはあくまで目的を達成させるための2次的な動作だ。

ロングディスタンスハイキングにおいて歩くことはスタートからゴールへ向かうための唯一の方法で、同時にアクティビティの目的でもある。美しい景色や美味しいたべものは、歩く中でたまたま遭遇することのできたイベント(それは歩くうえでの大きなモチベーションにつながる)。要するに一般的な観光を逆引きするイメージ、と言えば伝わりやすいだろうか。そして道のりが長くなるほど当然、歩く日数は延び、いつしか徒歩移動のスピードが身体に染み付いていく。

2016年9月、人生初のロングディスタンスハイキングに挑戦した信越トレイル。結果から言うと、無事にスルーハイクすることができた。

80kmという当時の自分史上最長の距離を歩き切ったわけだが、その4泊5日の行程はもちろん簡単ではなかった。テントを担いで単身で山を縦走するなんて経験はそれまで皆無だったので、言い知れぬ恐怖と不安、緊張が入り混じった、よくわからないフワフワした感じでスタート地点の斑尾山頂に立った。

そこからゴールの天水山頂(現在は苗場山頂が東の起点)へ向かって、文字通り一歩ずつ進んでいくが、繰り返されるアップダウンとテン泊装備+食料入りの重いザックを背負っての歩行、さらには台風通過直後の不安定な天候も相まってメンタルに堪え、つい弱音が口からこぼれる。

それでも歩き続けていると徐々に身体と脚は慣れ、周りの環境を気にする余裕も出てくる。霧の立ち込める深い森、視界に飛び込んでくるのは豪雪の影響で大きく曲がりくねった個性豊かなブナの樹々。その樹皮に這うとびきり大きなナメクジ。足元には秋の草花や何やら知らないキノコの数々。

風向きが変わりどこからかフワッと獣臭が漂ってきたり、藪の中でヤマドリがドラミング(警戒音)を響かせたり。ハイカーに興味津々のエナガの群れは延々と追跡してきて離れず、とてもフレッシュな足跡をトレイル上に残していった熊もいるようだ。この自然に棲む「生命」が確実にすぐ傍にある―いや、人間である自分が彼らのテリトリーにお邪魔しているのだ、ということを思い知らされる。

そうこうするうち、いつの間にか「歩く」という行為自体が楽しくなっていることに気付く。相変わらず上り坂は苦しいし、下り坂では滑って尻餅をつく。雨と泥がたっぷりと染み込んだブーツは重くて臭い。でもそんなのはもはや取るに足らないことだ。とにかく繰り出す足が自分の身体を前に進めてくれる。1歩ずつ、1日ずつの蓄積が、「距離」となって明白に表れる快感。ここまで来た道を振り返ったときの充足感(と、これから行く道の残りを考えたときの虚脱感)。デイハイクでは感じることのない異様な没入感。

ロングディスタンスハイキングを経験する人たちが皆同じような感覚を持つのかどうかはわからない。歩く道や距離によってもきっと差はあるだろう。しかし少なくとも、「歩く」というシンプルな動作を一定期間続けていると、何か人間の中の運動欲求みたいなものが満たされるように思う。もちろんハイキングには最終目的地があって、「歩かないと終わらない」のでひたすら歩くわけだが、しばらくするうちに歩くことが自分の身体にとって当たり前の動作へと変化していく。

そうなると「目的地へ向かうために移動している」という意識は半ば消え去り、淡々と歩くことそのものに心地よさを感じるようになるのだ。一度でもこの快感を味わってしまうと、次から次へとそれを追い求めたくなる、中毒性の高いトリップ。

子供の頃、人類の祖先であるホモサピエンスがアフリカ大陸から出て全世界に広がったという説を教わったときに、途方もない距離を徒歩移動することを想像し、果てしないロマンを感じたものだ。世代を重ねながら新天地を求め、彼らも淡々と歩いたのだろうか。

標高1000m程度の関田山脈を延々と辿り、天水山へ到達した。山頂の道標が目に入った瞬間、達成感と同時に「終わってしまった」という思いがこみ上げた。たった5日間だったが、ずっと導いてくれた道が突然に途切れる。そこから下山ルートが続いてはいるが、信越トレイル本線はもうその先に無い。そう思うと寂しくて仕方がなくなった。恐怖と不安に押しつぶされそうだったスタートから、スルーハイクを遂げたここまでを思い返す。ゴールはもっと単純に嬉しいものだと想像していたが、どうやらそうではないようだ。

麓の森宮野原駅までアプローチトレイル降る。途中、林道の日向で濡れたテントを道いっぱいに広げて乾かし、その横で寝転がった。天候はすっかり回復して、高い空が広がる。乗る予定の電車までにはまだ余裕がある。渡る風の音を聴きながらしばし目をつむった。

ほんの一週間前の自分には想像すらできなかった、言いようのない安堵感と開放感に包まれる。我ながらよく歩いた。

段々田んぼエリアを縫うように農道を下る。黄金色に染まった稲穂が目に眩しい。里の暮らしがどんどん近づいてきて、旅の終わりを実感する。初めて訪れた森宮野原駅周辺は信じられないぐらい大都会に見えた。

駅へ到着し、やがて来たディーゼル機関車の鈍行に乗った。車窓からはつい今朝まで過ごしていたはずの関田山脈の稜線がくっきりと見える。あの中にいた5日間は、実は夢だったのでは?と考えている間にも、列車は次々と駅に停車していく。そうして歩いてきた80kmはあっけなく巻き戻されたが、さらに飯山駅から乗った新幹線が猛スピードすぎて、心が追い付く間もなく東京駅へ降り立った。

(つづく)

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