みちのく潮風トレイル 第4話 「またおいで」
自然歩道に入ると、そこは濃厚な夏の名残で覆われていました。分厚い薮をかき分けて、やっと車道に出て一息つくと、身体に絡まっていた小さなクモが数匹、慌てて逃げていきました。次の歩道の入り口も相当な薮で、トゲに引っかかった高価なアウトドアウェアが毛玉だらけになってゆくのを哀しみながら、突撃するしかありませんでした。
ところが海岸段丘の急斜面を登ると、突然きれいに下刈りされた植林地に入り、つい先程まで、誰かが森仕事をしていた気配がありました。よく見ると、作業道はよく整備されていて、トレイルが作業道と交わるこの辺りもついでに草刈りしてくれているのか、しばらく心地よい森の小径となっていたのです。地元の人のさりげなく友好的な気配を感じて、温かな気持ちになりました。その先で舞茸を見つけたことは内緒です。一欠片、朴の葉に包んで持ち帰りました。
自然歩道が終わり道路に出ると、不思議な気配のある集落に出ました。ちょうど向こうから歩いて来た女性に挨拶をすると、女性は立ち止まって背を伸ばし、話し始めました。
ここは麦生(むぎょう)と言う古い集落で、坂の下には漁港があり、夏はウニ、冬はアワビの漁が盛んなのですよ。岬の先端にある神社を背景に、漁の写真を撮りに来る愛好家が大勢います。今は静かだけど漁の季節はにぎやかだから、「またおいで」
半分以上は訛りが強くて聞き取れず、最後の言葉も社交辞令と思いながらも、また来ます。と、笑顔で挨拶を交わして別れました。
ただ、それだけの話で終わると思っていました。しかし彼女と別れた後で、岬の先端にある神社を訪れた時、不思議な予感がしました。そこは“厳島神社”といい、私の故郷にある厳島神社と縁の深いところでした。断崖の下の漁港を見下ろしながら、漁の時期のにぎわいを想像していると、なぜかまた、ここに帰ってくるような気がしたのです。こうして八戸の鮫駅から久慈駅までのおよそ100kmを歩き終え、楽しい5日間の休暇は終わりました。
それから2ヶ月後。私は再び、久慈駅に戻ってきました。軽い気持ちで歩き始めた“みちのく潮風トレイル”の魅力にすっかりのめり込んだ私は、東京に帰ってすぐ、続きの久慈から宮古までの区間150kmを歩く計画を立て、9日間の休暇を取ったのでした。
11月下旬、小雪がちらつく中を、南に向けて歩き始めました。歩き始めて2日目に、ルートから少し離れた野田村の民宿に泊まりました。宿のご夫婦に、私が写真を撮りながら歩いていることを話すと、近くに住む写真家の男性を紹介してくれました。その方は久慈市のアート施設で活動をされていて、ちょうど明日まで、とても面白い展示が開催されていることを話してくれました。興味を惹かれた私は、翌日その施設へ連れて行っていただくことにしました。
そこはなんと、2ヶ月前に、「またおいで」と言われた、あの独特な雰囲気の集落でした。トレイルのすぐそばにある、“あーとびる麦生”という施設は、廃校になった校舎を活用した美術館でした。運営しているのは久慈を中心とした周辺の市民で、手作り感があふれる素敵な空間に、地域の人々が集っていたのです。
ほのぼのとした雰囲気がすっかり気に入った私は、完全に勢いだけで「来年ここで展示させてください!」と言ってしまいました。館長のKさんは私がスマホで必死に見せた作品を気に入ってくれて、「この部屋でどう?」とKさんもノリノリになり、勢いのままそれは翌年実現することになるのでした。
さて、美術館を見学した後、写真家のOさんは、普代村の黒崎キャンプ場まで私を車で送ってくれました。途中、野田村と普代村の見所を紹介してもらいながら、本当ならその日歩くはずだったルートを車で一気に飛ばしてしまいました。そんなわけで、陸中野田駅から普代村の黒崎荘まで、30km余りの魅力的な区間を、私は歩き損ねてしまったのでした。
いいんだ、また来る口実ができて嬉しい。謎の展開を、面白がっている自分がいました。ニヤニヤしながら、心地よい寝袋の中で眠りにつきました。
そして翌年の初夏、“あーとびる麦生”での写真展が、実現しました。展示作業が終わった後、三陸特有の濃霧“やませ”に煙る集落を散歩していると、なんと最初に麦生を訪れた時に出会った女性と、ばったり再会しました。しかし彼女は私のことを覚えていなく、ほとんど同じ話をして再び最後に、
「またおいで」。
というオチがついてしまいました。でも、“あーとびる麦生”に集う魅力的な皆様と引き合わせてくれた彼女には、ただ感謝しかありません。また会いに行きたい、もう一度「またおいで」と言われたい。と思いながら、行けない日々が続いています。気兼ねなく会いに行ける日が1日も早く戻ることを、心から願っています。
あーとびる麦生:https://www.artville-mugyo.com/
広島県生まれ。写真家、長距離ハイカー。2008年より写真家として活動を始める。2017年にニュージーランドの長距離ハイキングコース「Te Araroa Trail」を175日間かけて歩いたことがきっかけで、歩きながら写真を撮るシリーズを続けている。■主な写真展:2021年に個展「徒歩景色」みちのく潮風トレイル名取トレイルセンター開催。2019年に個展「emu」他多数開催。■出版:2018年に写真集「emu」出版。2010年にフォトブック「熱帯温室」他。