ヒマラヤ徒然草第三回:インダス源流徒然草

チリン村

氷河を目指して渓谷に入った私たちは、最初の目的地であるチリン村に着いた。

村と言っても建物が3軒と畑のようなものが少しだけ。あとは建物から「ジュレー」と言いながら顔を出すおばあちゃんが居た。おばあちゃんの容姿といい、玄関に魔よけとして飾られたヒマラヤンアイベックスの頭骨といい、辺境の雰囲気が全開だ!!

ラダック語での挨拶は「ジュレー」という。これは日本で言えば「こんにちは」や「ありがとう」「さよなら」の意味があり、若者言葉の「うっす」ほどに万能だ。親しみを込めているのか頭に「オ」という発音がつくこともあり、通りすがりのラダック人と「ジュレー!」「オジュレオジュレ~」と交わすこもある。私が覚えた数少ないラダック語の一つだ。

チリン村に住むのは、このラダック人のおばあちゃん一人だけだそうだ。彼女は御年77歳。この村の全てを一人で切り盛りしている。おばあちゃんは私たちに寝床を提供してくれた。感謝どころの話ではない・・・。どこの馬の骨とも分からない異邦人である私をもてなしてくれるのは、とんでもなくありがたいことである。ひと段落着いた頃、おばあちゃんがミントティー出してくれた。

※ミントティーを作るおばあちゃん

ミントティーは、ラダック人にとって一般的な飲み物だそうだ。ミントが川沿いに生えており、それを洗って茹でるだけ。

隊のラダック語通訳のテンジンによると、来客にミントティーグルグルチャを出すことはラダック人のおもてなしだそうだ。

日本から遠く離れたこの土地にも、お茶を出すという風習が共通しているのはなんだか和む。そして面白い。この風習を最初に考えたのはどこ国でどこの誰なのだろう・・・。そんなことを考えながらお茶をいただく。

ミントティーは疲れた体によく効くと言うテンジン。風味は日本で飲むより野性味を帯びている、と言うと少々わざとらしいだろうか?

ここチリン村をはじめとするマルカ渓谷の村々では麦、蕎麦、芥子、アンズの栽培が行われており、村の人々はそれらをレーなどの市場に出して生計を立てているという。さらに渓谷にはシーバクトゥンと呼ばれるフルーツが自生しており、これもまた生活の重要な一部となっている。シーバクトゥンはオリーブのような細くて硬い葉と鋭い棘に覆われていて、5ミリ程度で小さなオレンジ色の果実を大量に実らせる低木だ。

味は、レモンに甘みを足したような味わいで、桑の実のような食感。いかにもビタミンが豊富な印象だ。ラダック人はこれをジャムやジュース、また葉を薬草茶として利用するそうだ。(※シーバクトゥンが本来の呼び名なのかは分からない)

市場に出して生計を立てるといったが、いくら辺境の地に住む人間とはいえ先端技術の恩恵を少しは受けているようなのだ。チリン村で見たのはソーラーパネルによる発電や室内の電球だ。今の時代どのような場所に生きる人でも原始の生活を続けるような民族は少ない。それを不便と嘆く人が居るのであれば申し訳ない話だが、その物質的な恵まれなさは同じくらい心情的な豊かさを私に与えてくれた。

私がミントティーを飲みながら集落の畑を眺めていると、ニコニコと何かを言いながらおばあちゃんがやってきた。明らかに私に対して何か言っているようだったがテンジンは側におらず、何を言っているのかがさっぱり理解できない。だがこの時、不思議と言語が通じない場所でする、お決まりのボディランゲージを使った意思疎通をしようという気が起こらなかったのだ。

私は勝手に「美しい場所でしょ」と言っているのだと解釈した。理由は無い。もしかすると「今日は疲れたでしょ?」なのか、「あなたは何処の国の人かしらか?」だったのかもしれない。

相手の話す言葉が理解できないということは、相手が話しかけているという事象がそこに在るにもかかわらず、その意味解釈は何千通りにも分岐するということだ。と言いたいところだが・・これは言語が通じないからなのだろうか?

互いに通じる言語で話し合っていても、我々人は互いにその言葉の裏にある気持ちやその考え、その発言に至った経緯を無意識に事細かに考えがちだが、真意は発言者本人にしかわからない。それを自身の憶測だけで決めつけた解釈をしてしまう誤解や勘違い、印象のズレ、相手に対しての理想像と現実の違い、こうしたものはすべてこれらの積み重ねだ。

即ち、我々は自身が思っているほどに言語に頼っての完璧な意思疎通が完成されいない。それは、あらゆる要素のさらに上に誤差を抱えた状態で成り立っているように見えるに過ぎないと私は考える。言語が通じない人間と分かり合えるのはそういうことだと思う。あらゆる要素のうち言語というたった一つの要素が消え去ったところで意思疎通という複雑なモノは大きくは壊れないのだ。

さて少々脱線が続いてしまったが、ともかくニコニコしながら家事を淡々と進めている姿だけは日本の田舎のおばあちゃんとよく似た雰囲気があった。こうして、この満天の夜空と、のどかな空気に飲まれた私は、気がつくと眠りに着いていた。

いったい何時頃だっただろう。
旅の最中の空き時間の大半は考え事で埋まる。

ーーー

翌朝、昨夜の考え事を吹っ飛ばすかのような物騒な物音で目が覚めた。私が寝ていたのは、屋根の上に強制的に部屋を作ったかのような場所だったのだが、音はその真下から聞こえてきたのだ。

何事かと梯子から下をのぞいてみると、大型の野犬がおばあちゃんと対峙しているではないか。

慌てた私はすぐさま駆けつけようとしたが、おばあちゃんは来るなと言う仕草をする。自己犠牲で何とかするとでもいうのかと思った瞬間、おばあちゃんは部屋の奥に居た飼い犬を両手でつかんで野犬に向かってぶん投げたのだ。目の前で広がる光景に私は開いた口が塞がらない。それに、おばあちゃんは「ヒーっふぇっふぇっふぇ」と笑っている。さらにまた犬は律儀に野犬と戦っているのだ。

何というクレイジーなおばあちゃん。まるで魔女だ。

何たる凄まじい光景を目にしたものだ。そしておばあちゃんは文字通り朝飯前といった面持ちで朝食を作り始めたのだ。

この日のメニューはシーバクトゥンのジャムを塗ったロティとグルグルチャだった。こうして旅のルーティンが始まり、チリン村を出たのは朝の8時頃だっただろうか。

これだから旅は、楽しい。

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