ヒマラヤ徒然草第八回「夢の麓で」

ヒマラヤ徒然草

ついに到着

9月初旬、私は念願のKY-2峰ベースキャンプに無事到着した。標高5000mにあるベースキャンプはその双耳峰を取り囲むように流れる氷河の終端のモレーン付近に設置され、そのすぐ横には川幅1mほどの小さなインダス川が流れていた。KY-2峰は正面から見れば三角形だったが、ベースキャンプから見ると綺麗な双耳峰だった。

右耳にあたるのがKY-2、左耳がKY-1だが、これが懸垂氷河を纏った立派な峰でその登攀はなかなか高度な技術が必要に見えた。ここら一帯の中で一番高い山だ。どの様な景色が見えるのか、いつかぜひ登ってみたいものだ。地層が露出し、雪が張り付いたKY-1,2北壁の景色は圧巻だ。その上に登るというのだから、ワクワクが収まらない。

到着して間もなく天幕を設置していると、まだ早朝だというのに別の隊がキャンプに降りてきた。どうやら6000m付近で雪崩に巻き込まれたらしく、死人は出なかったものの一時撤退になったそうだ。山に事故はつきものである。楽しさと同等の危険が常に潜んでいるというのは鉄則だと思っている。

天幕の設置の次はトイレの設置だ。ここ数日間は野原で生活しているのだが、トイレは皆で手作りで設置した。スコップで20センチ×60センチ、深さ30センチほどの穴を堀り、その上に縦長の床が無い天幕を張ってトイレとするのだ。これが案外快適で、カトマンズの意味不明なバケツしか無いビショビショの汚いトイレの5万倍は良かったように思う。

用を足すと、穴を掘った際の土をその上からかけることでエチケットとするのだ。熱がこもる昼間は氷河の氷を入れておくことで防腐にもなるのではないかと、アレンジの案が色々と湧き出てくるくらいにシンプルで良いトイレシステムだ。最初に掘る作業を怠ると、溢れやすくなるというのがネックだが・・・。

あまり見られるものでもないので写真を載せておこうと思う。

隊に属している以上ある程度時間は拘束されるが、私は空いた時間はひたすら氷河の周りを散歩した。氷の河と書くが、下流の氷河は岩が混じった灰色の土砂のような見かけをしている。私はその氷がどれくらいの年月をかけてあの頂上からここまで流れてきたのだろうかと一人感動していた。氷が流動するなんて、さらにそれが溶けてインダス川となり、海へと出るのだから感無量である。

時は経ちアタックの前日の晩。私は誕生日が近かったこともあり、サプライズで現地の伝統料理のケーキを頂いた。粟で出来たケーキである。

こうして夢の山の麓で異国の人たちに祝っていただけるというのはこの上ない幸せだ。アドバンスドキャンプの設置禁止に始まり、出国直前の印パの争いと終始トラブルまみれの遠征準備だったが、こうして幸せな時間が流れるとこの場所に来ることが出来てとても嬉しく感じた。当時20歳。突然、勢いだけで突っ込んできた日本の青二才を受け入れてくれた仲間にも感謝だ。

「ここまで来たんだ。絶対頂きに立ちたい」という思いがより一層高くなる。しかし、その感情はより一層この登山の難易度を上げた。

たとえ山頂まで数分の場所だったとしても、撤退の必要が迫られたときに、それだけ自分が費やしてきた山から撤退できるのかと。「心を鬼にし、安全優先で判断をする」これは山屋として一番大事な部分である。どれだけ高度な登攀(とうはん)技術や素晴らしい体力を持っていようと、これが出来ない人間は山屋として失格だと私は思う。

それを知っていても、いまここに無理をしてしまいそうな自分が居るのだ。若者の1年を無駄にしてたまるものかと。私はその葛藤を消すために遭難で仲間を亡くしたときのことを思い浮かべた。その時に味わった残酷で悲惨な記憶は、山屋の私を保つ上でその支えとなってくれていたのだ。そしてアタックを迎える前。日没直後の静かなテントの中、登攀隊長がブツブツと話を始めた。

「俺の爺さんはヒマーチャルの山腹で牧場をやってたんだ。」

「ある日、その爺さんがいつものように山仕事に出ていくとき、一言こういったんだ『山に呼ばれた』って。」

「それっきり爺さんは帰ってこなかった。見つかったのはそれから何日も過ぎた後のこと。牧場の縁にある川沿いで倒れてたんだ。」

「山は不思議なもんだと思わないか?その魅力にとりつかれた俺たちはどうなっていくものか」

「俺はこの山にまだ登ったことがないんだ。前も雪崩で駄目だった。明日はどうか、頂に立てますように・・・。」

そして私は4時間ばかりの仮眠に入った。

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