ヒマラヤ徒然草第一回 : 小チベットのイラン人と出会い、有り難さ

ヒマラヤ徒然草

イラン人と出会って

ここラダックに来てからの私は、すがすがしい朝の雰囲気が好きで好きで仕方がなかった。

この日は、ドミトリーで同じ部屋に泊まるヒッピーが早朝からハーモニカでチベット音楽を奏でていた。その音は、近所から微かに漂うお香の香りと、ヒマラヤンブルーの空とよくマッチするのだ。完全にシャングリラ気分(※物語「失われた地平線」に登場する桃源郷)の私は、その最高の雰囲気を存分に味わえるドミトリーのベランダで、茶を飲みながらボーっとするのが日課だった。

茶は決まってグルグルチャという遊牧民の茶で、この茶にヤクのバターと岩塩を混ぜたもの。いわゆるバター茶のことだが、ここラダックではグルグルチャと呼ばれている。よくあるクセの強いスープ(パクチーなどの香草入りスープ)のような独特の風味がある。人によって好き嫌いが分かれる飲み物だが私は大好きだ。

ストック・カンリは、いつも同じように美しく白い姿を茶のお供に提供してくれた。雪を身にまとった山の姿は、何度見ても神々しく感じる。生物が生きることを許されない環境が故だろうか、地元民族の宗教的な問題で、登ってはいけない山も少なくはない。

この景色を眺めていると、「決して私に触れるな」と言っているようには、どうしても思えないのが本当に不思議だ。この感覚は異邦人であるが故なのかもしれない。

のどかな朝の空気の中、登山遠征の準備を急ぎすぎた私は、やることが無い時間をどうにか潰そうと意味もなく街に出た。ここにいると、永遠にボーっとししまう気がして、このままでは、こののどかな空気に飲み込まれてしまいそうで怖かったのだ。

チベットの街には、タルチョという旗がそこら中にある。タルチョには5色の旗に各文字が書かれて、おまじないのような物。日本でいうところの電柱のような感覚で、ごく当たり前に街中にある。

※タルチョ

タルチョ:五色の順番は青・白・赤・緑・黄の順に決まっており、それぞれが天・風・火・水・地、すなわち五大を表現する。タルチョタルチョクマニ旗ルンタまたは風馬旗とも言う。他に願い事や六字大明呪、四神(虎、麒麟、鳳凰、龍)などが描かれている場合もある。風になびくことで徳が積めるとして、チベット仏教では深く信仰されている。※以下省略。Wikipediaより引用

のどかな朝の時間を捨ててまで、リスクのある山に登ろうとする理由は一体何なのだ。と、自問自答してしまいそうになった時点で、旅に費やしたものの重さを忘れかけているのではないか、とも思う。
私は、心のどこかで本当は物凄く緊張していたのだろうか…。

この文を執筆している今となってはその心境があまり理解できない。

しっかり観光を楽しめばよいものを、当時はその自問自答を恐れるほどに、一直線にあの山に向かって突っ走るかのような生活をしていたのもまた事実である。陽の角度が上がり、いつもどおり皮膚を刺すような日差しが街中を照らし始めた。それでも私は、また行く当てのない散歩をしていた。いつものことだ。ただそこには、先述の外出のような特別な理由は無い。いつしか気づかぬうちに、レーはただ歩いているだけでも楽しい。というシンプルなものに変わっていた。

中心街のはずれにあるアプリコッドジュース屋さんの角を曲がる時だった。私は店の前でヘナタトゥーを入れる女性に目が留まった。特に理由は無かったが、妙に気になる雰囲気に惹かれ、私はヘナを入れて貰うことにした。

値段は相場通りで至って普通。私が料金を支払うと彼女はこう言った。「私に仕事をくれてありがとう」そして、その言葉を何度も繰り返した。私は、ハッとした同時に、自身でもよくわからない感情が脳裏をよぎる。本来なら有難いと感じるべき恵まれた日常や環境に対し、あまりにも当たり前のように過ごしてきた自身に気がついたからだ。そんな私の心境に、彼女の言葉はとても重く、強く心に響いた。

命だろうと、お金だろうと、何気ない日常であろうと、当たり前ではなという事実の有難みを思い知った時、決して見聞きした他人の体験からではない。いつも自身が体験するその時だけなのだ。

その点、よく耳にする「失って気づく大切さ」とはよく言ったものだとも思う。能天気で気ままで適当な私には、生まれながらこの世の全ての事象に心の底から感謝できるような優れた人間ではない。

こうして毎回、その物事の有難みに気づかされ、時が経つとその感覚が薄れてしまう。そして、またふと思い出す瞬間がくる。少なくとも私は、こうして、忘れては思い出す事を繰り返しながら少しずつ成長していく自分自身と旅をしているのだ。

ヘナタトゥーの彼女はムスリム系の恰好をしていた。聞けばイラン人だそうだ。

ここでは、数週間前にインドとパキスタン間で小競り合いがあった。正直、私生活について話を深く聞くのはセンシティブすぎるかもしれないという自身の勝手な憶測であまり詳しい話をせずにいた。それでも尚、彼女はひたすらに「私に仕事をくれてありがとう」と伝え続けてくれた。しまいには「ありがとう。これで今日もごはんが食べられるわ。」そう繰り返すのだった。

左肩に大きなヘナが入った私は、食事をとりにお気に入りの食堂へ向かった。この日食べた食事は、トゥクパ小麦粉で作られた麺で、うどんのような物だ。気づかせてもらった有り難みからなのか、トゥクパが妙に薄味に感じた。

異国のこの場所で憧れの山に挑めるというチャンスと環境に恵まれた私は、それが成功しようが失敗しようが、後悔しないように全力で挑むべきだ。例え、そのチャンスが努力によって得られたものだとしても、様々な理由で実現に至れずやるせない思いをする人は沢山いるのだ。改めてこの事に気づくことができた彼女に、私は「ありがとう」と心の中で伝えた。

やはり、散歩に行くという私の選択は間違っていなかったようだ。

※ヘナタトゥー

 

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