抗菌薬を持ち込むという私の判断が良かったのか、はたまた運が良かったのか、酷く苦しんだ翌日には旅を進めることに尻込みしたくなるような気分はすっかりとなくなり、私は再びザックを背負った。隊の仲間には酷く心配をかけてしまった。気にかけてくれた仲間や、わざわざ面倒を見てくれたラダック人には感謝の言葉も見つからない。予定ではベースキャンプ到達まであと3日だった。立ち止まっている暇はない、そう気分を上げて私はまた歩き出した。
「みんな、ユウキが帰ってきたみたいだ!」と仲間の一人であるアビーが声を上げた。
「昨日一日、終末を見たかのような目をしてたからな」
「こいつはピンピンしていないと怖い」
みんな口々に回復を喜んでくれた。「ほら、あんたのとこの国は凄い綺麗で清潔だろ?ここは衛生環境がそんなに良くないから、慣れてるんだよきっと。あんたは高度に順応したけど衛生に順応できてなかったんだ」と同じ登攀小隊のメンバーが話しかけてくれた。全く、その通りである。それなりに野人のごとく生きてきた自信はあったがまだまだ甘かったようだ。
とはいえ、一つ間違えれば笑いごとにならない状況だったのだ。今後の登山遠征でも衛生面は考慮すべきことが山程ありそうだ。
ラダックの伝統的なトイレ(写真):紙はおろか、水もない。用を足すとシャベルで上から砂をかける。上はトイレ、下は肥溜め部分という2階建て構造になっている。この日の目的地はハンカル村。渓谷最奥の村であり、それより奥は人のいない世界だ。両サイドに広がる岩峰の景観は険しさを増し、複数の渡渉(川を歩いて渡ること)を要する道となった。この渡渉というのがなかなかの厄介者なのだ。
河岸に着くと、まず登山靴を脱いで対岸に向かって思いっきり投げる。次にサンダルに履き替え、全員で縦一列に手を繋ぎながら、最も水流の力を受けにくい角度で水深50cm、幅10m前後の濁流を渡る。これが複数回連続してやると、とてつもなく面倒で消耗するのだ。朝から渡渉を繰り返し、徐々に高度を上げていた昼前。ものすごく古い僧院に差し掛かった。現地通訳のテンジン曰はく、何十、何百年もの間、近くに住む僧侶が毎朝この場所でお経を唱えているのだそうだ。
私は岩陰に荷物を置き、僧院に入った。かなり小規模なもので、かつては衣食住が行われていたのだろうと思わせる痕跡があった。
僧院の中は十畳ほどしかなく、そこには古代壁画かと思う程に古い曼荼羅のような絵が描かれていた。このような古い施設は文化財として管理されているようなものしか見たことがなかっため、なにかとんでもない物を見ているのではないかという気分に陥った。遠い異国の片田舎で管理されてない法隆寺に出会ったら皆さんはどう感じますか?私はそんな気分だった。僧院から出ると、自分の眼に雪を被った山が写っているということに気づいた。山頂に少しだけ雪を被った山だ。それは私に氷の世界がすぐ近くにあるということをより強く感じさせた。
位置的に恐らくストック山群の5000m級の衛星峰だろう。私はこの時ちょうどストックカンリの南側に居たのだ。僧院を後にして再び歩き始めた。そして小さなアップダウンを繰り返し、谷底の幅がやけに広くなってきたと感じている頃だった。隣に居たテンジンが突然「しっ!!」と指を立てたのだ。
驚いた私は小さな声で「どうした?」と聞くと、テンジンは私たちの前の草原を指さして「バーラルだ」と言った。茶色味を帯びたその毛並みのせいで私は気づかなかったが、そこには野生のバーラルの群れが居た。これには本当に驚いた。バーラルはヒマラヤやチベット高原の高標高域に生息する二本の角をもったヤギのような動物で、野生の群れに出くわすことはそうそうない動物だ。彼らは私達に気づいていたようで少しずつ距離を置くように私たちから離れていった。
そしてバーラルに出会ってから小一時間後。それまでは常にⅤ字に広がっていた景色についに渓谷の終端が見えたのだ。
ヌッと現れた真っ白できれいな三角形の山。明らかに周辺の景色とは違う空気を発しているその山は、間違いなく私がずっと追いかけていたKY-2のその姿だったのだ。インダス川の源流の一つ、北西20kmに渡って連なる6000m級の山塊の南端にあたる山。現地の言葉で「氷雪岳」を意味する「カンヤツェ」の南側の衛生峰。略称と番号でKY-2と呼ばれるその山は写真で見るより遥かに迫力があった。
&Green 公式ライター/ webクリエイター
幼い頃から自然と親しむことで山の世界に没頭し、大学時代は林学を学ぶ傍らワンゲルに所属。海外トレイル、クライミング、ヒマラヤの高所登山から山釣りまであらゆる手段で山遊びに興じながら株式会社アンドに勤務する。&Green運営・管理を担当。最近は「10秒山辞典」なるものを作成しているとか。