” 夜通しのチキンレースから目が覚めた私の前のフロントガラスには、
昨晩には見当たらなかったヒビが入っている。”
マナリ、デリー、そしてネパールを目指し、日本へ
レーで一人になった私は、陸路でマナリに向かった。
これがまた非常に過酷な旅路だった。不眠の中、グレートヒマラヤの山道を駆け抜けた。ディズニーシーの「インディ・ジョーンズ」のアトラクションのような道は話に聞いてたよりも過酷すぎた。時折訪れるヘアピンカーブの度に車が崖の下に落ちそうになり、それでいて運転手は崖下を確認しながら席から身を乗り出し運転をするのだ。
”ヴァシスト温泉”
マナリは、かつては「海ならゴア、陸ならマナリ」と呼ばれるほどヒッピーの聖地として栄えた町だ。そして、その名残で街中の至ることろに大麻が自生しているため、どこか怪しげで独特の雰囲気をもっていた。同じ宿には大麻目的で滞在する西洋人が朝から”何か”をふかしている。郊外にあるヴァシスト村では温泉が湧いており、世にも珍しいインドヒマラヤの露天風呂を楽しむことができた。
マナリを出た私はデリーに向かい、駅前の安宿街”パハールガンジ”に数日滞在した。ここまで戻ると死ぬほど暑い。街中の気温計は40度を指していた。山頂から実に60度もの気温差だ。タージマハルは教科書で見たものと全く同じ姿だったが、その周辺は想像していたよりもはるかに田舎で砂漠とジャングルを足して2で割ったような藪にまみれていた。私は観光の楽しさよりも暑さで頭がおかしくなってしまうのでは?ということに必死だった。
デリーから夜行列車でゴーラクプルへ、そしてネパール国境のスノウリに抜け、ネパールに入国。不思議とこの国境を境にガラッと空気感が変わった。殺伐かつ騒々しかったインドの空気はどこかへ消え、ネパールの友人が営む宿「ミスティック・イン」にたどり着いたのはその翌日の朝。1/3近くが未舗装の道という条件の上で、レーから実に2600kmもの旅路だった。本州最南端から最北端まで車で走っても2300kmである。実にハードだ・・。
この年は雨季が長く、昨年より雨の量が多い。帰国まで一週間ほどの猶予があった私はヒマラヤのアンナプルナ方面に向かおうとしたが、天気のせいかどうにも重い腰が上がらない。その上、カトマンズ特有の街全体及び人間のやる気の無さに見事に溺れてしまった。そうしてダラダラと一週間を過ごして日本へと戻った。
無事に帰国。安心したのもつかの間、なんと私は入院をした。「燃え尽き」であろうと言わんばかりに原因不明の高熱に襲われたのだ。腸チフスに感染していたのだ。こうして私の旅はあっさり終了するのであった・・・。
雑に、かつ流れるようにラストを執筆してしまったが、あくまでメインは山登り。帰路において思い入れのあることをしようなんて思ってもいなかった。ともかく、生きていることにバンザイ!だ。
最後に
帰路につく直前、私は宿を営む友人のすすめで”パシュパティナート”と呼ばれる、火葬場に立ち寄りました。そこはガンジス川のほとりで平然と遺体が燃やされ、またそれを眺める人も平然としているように見えるという異様な風景でした。死とは一体何なのでしょうか。死後の遺体をどうするのか知ってはいるものの、いざ目の前で遺体が燃やされる場面を見ると、不思議と身体が滅びゆくことが軽く思えてきてしまうのです。とてつもなく不思議なものがそこにはありました。
私はなぜ”死”と隣合わせの高所登山を始めたのでしょうか。好きだから。上からの景色が見たいから。くらいにしか思っていませんでした。ですが、こういった風景を見ますと、本当は何か別の理由があるのではないか?とわからなくなります。それをわかろうとする必要はないのでしょうが・・。ともかく、今後の思い出の考察をする上では私にとっては重要な場所だったのでしょう。
時は変わり、あれから2年半が経過した今。同じ小隊のドゥルフとアメットはフレンドシップ・ピークに登頂し、隊長のアルジュンはカラナグという難しい山に何度か挑むも敗退。皆それぞれに山屋を続けているようです。未曾有のパンデミックで私のその後のヒマラヤへの遠征計画は無残にも停止したままです。ですが、このまま止めたままにするつもりもなく、その分山の腕を磨き、仲間を増やし、少しずつ近づけるよう、そしてこの思いを忘れないように、こうして物書きをしている日々です。
絶対な安全は無いとはいえ、死と隣り合わせだと思っていたヒマラヤは腕次第では隣合わせから遠ざかることができるものです。既登ではありますが、CB-13峰やルンサール・カンリなど、登りたい山はまだ山ほどあります。あのやんちゃなロバともう一度山に登る日が来るのかもしれません。
最後になりますが、こうしてこの”ヒマラヤ徒然草”(私の書いたこの文章が)この世に出ることに喜びを感じるこの頃です。
この文章を読んで、少しでもどこかの情景を想像していただけたのであれば、たとえそれが現実とかけ離れた想像であったとしても、この世に”ヒマラヤ徒然草”を記した意味があったのだろうと私は感じます。
というのも、そこに行く前の憧れや期待も含めると、未完成で未知で、しかし不変でもあるかのように感じるヒマラヤの情景をそのままの状態で保存しておくためには、実際の情景とは別にある不安定な人間の感情の存在が不可欠だと思ったのです。情景の1パーツでもある自身の過去の感情を保存するための手段として、他人の感情の存在を頼りにするという発想です。
なので、「どうとでも捉えることができる自分の旅の解釈の一例をあえて他人に委ねることで、更にそこから新しい旅が始まる」これこそが私がこの文章を通じてやりたかったことの本質なのかもしれません。
改めまして、本シリーズをご愛読頂き、ありがとうございました。どうか、皆様にも面白い旅が続きますように。
横田雄紀
&Green 公式ライター/ webクリエイター
幼い頃から自然と親しむことで山の世界に没頭し、大学時代は林学を学ぶ傍らワンゲルに所属。海外トレイル、クライミング、ヒマラヤの高所登山から山釣りまであらゆる手段で山遊びに興じながら株式会社アンドに勤務する。&Green運営・管理を担当。最近は「10秒山辞典」なるものを作成しているとか。