空と大地のあいまに 01

アウトドア

序章 「扉」と目玉焼き

数年、「長距離ハイキング」という遊びに取り憑かれています。いわゆるロングトレイル等を歩くことですが、ただ、歩く。という、人間にとって最も基本的な動作が、こんなにも深く、身体と心を喜ばせるのは、なぜだろう。と、さまざまに思いを巡らせ続けてきました。

はじまりは、冒険への憧れでした。年齢を重ね、生活のリズムが安定してくると、日々に新鮮さが失われてしまいがちです。心がここではないどこかを求めてさまよっていました。行き詰まりの出口を見出すためにも、退屈な日常を離れ、刺激を受け、物事をこれまでと違う視点から見つめてみたくなったのでした。
今回は、そんな私が不意に出会ってしまった、目には見えない「扉」についてのお話です。その扉を開けてしまうと、もう二度と、これまでと同じ目で世界を捉えることができなくなるのではないか。と直感的に感じた出来事です。

2005年、晩秋のこと。珍しい建造物を見に行った英国の片田舎で、アットホームなB&Bに滞在し、くつろいでいました。そこにあった分厚いガイドブックをめくっていた時、ある国立公園に関するページに、妙に惹きつけられてしまったのでした。

翌朝、どうしてもそこに行かなければならない気がしたので、路線バスをいくつか乗り継ぎ、半日かけて、そのダートムーア国立公園の中心地、プリンスタウンに到着しました。そしてビジターセンターで手頃な散策コースを紹介してもらい、町から5kmあまり先にある、十字架の遺跡まで歩くことにしました。


牧場のゲートを開けて外に出て、丘の上に登ると、灰色の空と荒凉とした大地が広がっていました。枯草色の大地の上には、はるか先へと続く、一本の踏み跡が通っていました。その道は、何世紀も前には僧侶が歩いて寺院を巡っていたという、長い歴史のあるもので、予想外に雄大で美しく、気持ちの良い場所でした。

一人のんびり歌いながら道を辿っていた時、向こうから風がやってくるのが見えました。遠くの草原がゆらめいて、ザワザワという音と共にどんどんこちらに向かってきて、ついにドッと風が吹き抜けて、身体が揺さぶられたのです。その瞬間、私は、今まで感じたことのない不思議な感覚に襲われて、思わず「わあーっ」と声をあげてしまいました。

全ての虚飾が、飛んでいってしまった気がしたのです。大人として、社会人として、“私”を押し込めていた型枠、つまり偽りの私をつくる仮面と、その裏にある過剰な自分らしさへの自意識が、バラバラになって吹き飛んでしまいました。そして最も深くにあった、素の、体温のある、普遍的な人間の骨格が、一瞬見えたような気がしました。


この世界には、空と大地があり、その間を風が駆け抜けている。大地にへばりつく人間の、何と小さいことだろう。その時に撮った写真は、誰にどう言われようと、私にとっての最高傑作であり、今もその思いは変わっていません。

翌日、高速バスでロンドンに戻る途中、私はなぜか、あそこで見たものは「帰り道への扉」に違いない。と強く感じていました。道に迷ってしまった私があの扉を開けると、私が本来こうありたいと願っていた姿で、人間らしい心を持って暮らしている場所へと帰れる道があるんじゃなかろうか…。唐突に、フライパンの上で美味しそうに焼けてゆく目玉焼きの映像が、脳裏に浮かんでいました。

その扉は、考えようによっては禁断の扉かも知れません。私はそこそこ咲ける場所に置いてもらえた、それなりに幸運な鉢植えの花でした。与えられた環境に感謝し、満足すべきではないか?しかしずっと昔、祖母がこんなことを言っていました。あんたには、目と耳と口と足があるんだから、どこにでも歩いて行けるでしょ。

私は人間なのだから、レールの上を機関車に運んでもらわなくても、自分の足で行きたい方に歩いて行けばいいのです。目を開き、耳を澄まし、笑顔で挨拶を交わしながら歩けば、きっとどこかにたどり着けるはず。そんな訳であの日から、禁断の帰り道への扉を開けに行くための、長い長い曲がりくねったまわり道が始まったのです。


冒険に憧れて小さな旅に出た後、まずは私の日常の中の違和感を見直すことを始めました。ようやく扉を開けられたのは、それから10年後のことでした。見知らぬ場所を訪れ、そこで暮らす人々の日常の間を通り抜けながらひたすら歩き、やがてまた日常に戻り、少しずつ自分の心が求めていたことが見えるようになってきました。

日々の中でささやかな喜びを味わえることが、どれほど幸福なことであるか。それこそが、私が帰りたかった場所であり、案外難しいことでもあると、長い道のりを経てようやく今、わかってきたのです。

まわり道と扉の向こう側に関する話は、いつか書いてみたいと思いますが、次回からはいきなりワープして、最も直近の旅の話から始めたいと思います。
2021年に一旦完結した、「みちのく潮風トレイル」の歩き旅。私がそこで出会ったのは、かつてそこに存在し、今は時代の中で変わりつつある暮らしの、美しさの名残であったのかもしれません。

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