ベースキャンプで数日間過ごしたあと、さらに高度に身体を慣れさせるため、登ったり降りたり泊ったりを繰り返す。まず、4800mのベースキャンプから6400mのキャンプ1へ出発した。私の大好きな雪の世界へ入っていく。ベースキャンプからは1600mの高低差。白銀の世界に、赤や黄色のたくさんのテントが並んでいて、感動した。小学4年生で初めて八ヶ岳に登って「雪山」というものを初めて見たときの感動に似ている。
高山病にもならず、元気いっぱいで無事ベースキャンプへ戻ってきた。下りは走って降りた。ベースキャンプへ戻った数日後、仲間の一人が呼吸困難に陥った。別の隊から医師がかけつけ、酸素ボンベを使い、なんとか危機を脱した。私はこの時、日本赤十字豊田看護大学の2年生。実際にこのような危険な状況が起こり、正直、何もしてあげることができなかった。悔しい気持ちでいっぱいだった。もっと、知識と経験を積み、看護師として成長したいと思った。
その後、キャンプ1に数回ハイキングに行った。まさかこれが最後の高度順応になるとは想像もしていなかった。本来ならば、キャンプ2、キャンプ3にも高度順応に行き、一端ベースキャンプへ戻って登頂アタックの機会をうかがうのが通常だからだ。
しかし、そこから1週間、大雪が続いて身動きがとれなかった。私たち4人は、永遠と、トランプの「大富豪」に情熱を注いでいった。それはそれで楽しかった。
9月26日の朝。ようやく雪が止み、快晴となった。外に出ると、ベースキャンプに初めて着いた光景とは全く違う白銀の世界に変わっていた。高山病だった仲間も元気を取り戻した。
長い間の大雪に、たくさんの隊が登頂をあきらめ、撤退していった。私たちも登頂は難しいのかもなと思っていた。すべての隊のスタッフたちが集まって大ミーティングが開かれ、最後のアタックチャンスにかけることが決まった。まだ、私たちの酸素ボンベやテントの荷揚げが完全に終わっていない状況だったため、私たちのコーディネーターが他の隊から1人のシェルパを応援に来てもらうよう頼んでくれた。彼には酸素ボンベの荷揚げと、キャンプ3からアタックする際、私たちの酸素ボンベを交換してもらうことになった。
当初はキャンプ4までテントを張って登頂するという計画だったが、登頂予定日までの時間がないため、キャンプ3から登頂する計画になった。初めての8000m峰なのにキャンプ2にも行ってないけど大丈夫か、しかもキャンプ3からアタックして大丈夫か、という不安があったかどうかは記憶にない。ということは、そこまで何も考えていなかったのだと思う。とにかく行ってみよう。ただそれだけ。駄目だった時は戻ればいいと思って挑んだ。
キャンプ1に着いた時、仲間がトイレ用の雪の穴を掘っていたので、手伝っていたら、吐きそうになったのでやめた。そのあと、熱が上がってきたのが分かり、薬を飲んだ。もし体調が戻らなかったら降りようと思っていたが、日本の薬は最高。すぐ治った。
キャンプ2からキャンプ3までは開けたスキー場みたいなところを登っていく。景色は最高。雪がキラキラ光っている。途中で他の隊のシェルパたちに私の持っている食べ物をあげたりしながら登った。その時においしいと思ったのが、揚げニンニクのドライフード。登山ガイドの友人に教えてもらったものだが、それを食べながらキャンプ3まで登ったことをなぜかいまだに覚えている。
キャンプ3へ到着後、1人の仲間が上がってこない。無線で、下山すると言っているようだったが、下山するとなると一緒に降りるシェルパが足りない。また、ここまでくれば酸素ボンベがあるので回復する可能性があった。仲間は時間をかけて夕方、キャンプ3へ到着した。
私は当初この仲間が苦手だった。でもこの時はなぜか、登ってくるのをずっと待っていた。一緒に登頂したいと思った。自分にこのような感情が出てくるのがとても不思議だった。新たな自分を発見できたという意味で、ここまで来て良かったと思った。「新たな自分を発見できる」。そこが「山」の魅力の1つだと思う。
1981年福岡県大野城市生まれ。3歳より登山やサバイバルキャンプを始め、アジアの子ども達と海外登山や冒険キャンプをするようになる。小4で初の雪山登山に魅了され、中1で初めてパキスタンの4700m登山を経験。日本人女性初8000m峰8座登頂、日本人女性初世界トップ3座登頂他多数。現在は、アジア人女性初8000m峰全14座登頂を目指す。これはあくまで通過点であり、その先にあるもっと大きな夢に向けて様々な活動に取り組んでいる。
■ 2022年 1/15〜3/31 初の個展となる、【 渡邊直子展〜8000峰18回登山の軌跡〜 】開催中。