ほとんど眠れない時間があっという間に過ぎ、気づけば午後八時。起床時間を迎えた。朦朧とした頭でハーネスを履き、ザックを背負い、そしてメインテントに向かう。朦朧としながらも、みんな緊張したような面持ちで朝食を食べる。会話数の少ないメインテントのその雰囲気は合格発表を前にした学生と似たものを感じた。
午後九時。四人の登攀小隊×2隊の計8人で私達の隊はアタックを開始した。天の川がかかった満点の星空の下、氷河への取り付きまでひたすら雪混じりのガレ場を登る。何か書くことはなかったかと思い返すものの、無心で登っていたのでやはり書くことが無い。困ったものだ。
出発して2時間と少し。ようやく氷河への取り付きポイントに到達した。この少し上は本来アドバンスドキャンプを設置するはずの場所だったようだ。セーフティノットを結ぶような、それとない動き一つ一つに「遂にか・・・」というホッとするようなドキドキするような表現できない感情が付随してくる。
アンザイレンを組み、私は上を見た。遠目には小ぶりに見えた北西稜の氷河も、ここまで来ると大きな白い壁に見えてくる。上で雪崩に遭ったらここまで落ちてくるというのが容易に想像できるような斜面だ。
氷河に取り付いてすぐ、私たちは大きなクレバスに遭遇した。スキーの上級者コースに漫画のような地割れができたような景色は、人から聞くか写真で見るような光景だ。こうして実際に目にすると限りなく不気味さを感じる。まだ完全に氷河が裂けきっていないのか、割れの中に一点だけ、橋がかかったように対岸とつながっている場所があった。私たちはその橋のような場所を渡った。
初めてのクレバス突破。シンプルに恐怖に感じたが、同時に面白く楽しいのだ。左側は大きく避けており、右側は途中から上部だけ雪で埋まっているような状態のクレバスを見て、植村直己の竹竿を思い出した。「ああ、彼はそうやってあのヒドゥンクレバスを回避したのか・・・。」クレバスを突破した後は、何時間も、ひたすら上に向かって登った。見えるのは先行隊のヘッドランプと天の川だけ。真っ暗闇の中斜度50〜60度の斜面をひたすら登るそれには、宇宙の中で泳いでいるような、自分がどこにいるのか全く分からなくなるような感覚を覚えた。
こうして何時間か登り続けた後。ふりかえると自分の背中の方角、チベットの方の空がうっすらとオレンジ色を帯びているのに私は気がついた。同時に今自分が居る場所がどうなっているのかがよく分かった。垂壁ではないが、それなりの斜度の雪面をひたすら登ったのだ。
かなりの高度感のあるその場所は、「ここまで来てみろやーいやーい」と、子供の最終形態のような景色だった。
標高6000m。北西稜から主稜に向かってトラバースする場所でこのルートの最大斜度を迎えた。雪質もパウダー気味でアイゼンの効きが悪い。慎重にトラバースし、なんとか主稜に出たところで、私は猛烈な便意に襲われた。
ヒマラヤに来て、頂上まで後少しでまさかの便意の猛攻だ。これには心の底から落胆した。死活問題である。その瞬間、私はその避けられない生理現象に対する対策を何も講じていないことに気づいた。いや、講じようがないのだ。それはそうだ。例えばだが、「必読!超高所でのトイレ対策!」みたいなブログ。そんなものはあってたまるものか。なぜなら不意の遭遇は冒険の醍醐味だからだ。
そして私は一言、「トイレがしたい。後ろに移動する、ザイルをくれ。」と言い放ち、ハーネスに繋ぐなりすぐに10mほど離れた場所まで下がった。ピッケルのブレードで氷雪を掘り、最後にピッケルで支点を作り確保付き便所を作った。ズボンは脱ぐのでザイルをたすき掛けにし、雉を撃った。この上ない贅沢な青空トイレだが、女性も含む仲間の前なのでほんの少しだけ気が引けるような・・・気がした。
しかし、この環境にいるのが事実となるとどうでも良いとも思う。そんなこんな、私たちはなんとかラストスパートの主稜に出ることができた。左に雪庇ができたその稜線の先には左側に突き出た特徴的なKY-2峰の山頂が見えた。
心の中で「あと少しだ!」という感情が湧くなか、疲労も容赦なく襲いかかってくる・・・。この高度の酸素の量ではむやみに息を上げるだけで虚無を吸うような感覚に陥ってしまうため、焦りは禁物だ。落ち着いて、着実に、一歩一歩、ゆっくりと山頂を目指す。しかし、このタイミングでまさかの天候悪化。一瞬いやな予感がしたが、命の危機を脅かすホワイトアウトではないとの判断で登攀続行。その判断は的中し、ときおり雲の切れ目からピールパンジャブ方面の山々が見える程度にまで回復した。
そして、アタック開始から10時間半が経過した頃。私たちはついに頂を踏んだ。
クーンブの山々に衝撃を受け、一年の準備の末にたどり着いた。その景色は感情補正があまりにも大きく、どのようなものだったかを語ろうとするとまともな姿を語ることができない。
私は、ザックから国旗を取り出し、思いっきり空に掲げた。
「みんな、よくやった!!!」
「みんなありがとう!!!!」
「最高の景色だな!!」
と皆口々に感情を顕にした。
何故だろうか、多くは語ることができないが、ここヒマラヤの頂で歓喜する瞬間が確かにあったことは事実だ。これは私がずっと夢に描いていた景色であり、登山家が山頂に立つ姿のそれそのもので、この上ない喜びを感じた。
&Green 公式ライター/ webクリエイター
幼い頃から自然と親しむことで山の世界に没頭し、大学時代は林学を学ぶ傍らワンゲルに所属。海外トレイル、クライミング、ヒマラヤの高所登山から山釣りまであらゆる手段で山遊びに興じながら株式会社アンドに勤務する。&Green運営・管理を担当。最近は「10秒山辞典」なるものを作成しているとか。